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面白い本の探し方(見つけ方)

開催日:2010年4月17日(土)
会 場:コーヒー屋シュッツ
話し手:大西旦さん(さいたま市)

大西旦さん

【 目 次 】


は じ め に

僕は総合出版社で40年ほど編集者をしました。最初に学年誌から少女漫画雑誌に移り、幼児雑誌、それからまた学年誌に戻り、少女雑誌にいって地名辞典をやって、文庫ができた時にそこへ異動、海外推理小説や医学書なども手がけました。仕事なのでやれと言われたら読まなければならないし、本は好きだったので。今日は本好きな方が多いので非常に話しにくいですが。僕流の話をします。

〈面白さ〉とは個人的な感覚で各人が皆違う。万人が面白いという本は極めて稀。(全て好みの問題)


面白い本とは個人的な感覚で、誰かが絶対面白いよと言っても、自分では面白くないということはあります。これは全く僕個人の感覚で話すのでそのつもりで聞いていただければありがたいです。

義務で読まされるほどつまらない本はない。読書は楽しみであるべき。〈教養〉より〈悪書〉


僕は偶然出版社に入りましたが、それ以前、伯父が貸本屋をやっていましたので、ほとんどタダで漫画も小説も借りて読むという、恵まれた環境にいました。出版社に勤めてからは、特に若い漫画家で本を読んでいない人が多く、話を作るのが下手なので、ネタになる本を教えるということをかなりやりました。それで本を読むという機会が多かった。

僕は昭和18年生まれで、テレビのない時代に育ちました。小学校の時は漫画ばかり読んで、活字にはほとんど触れませんでした。中学に行って初めて読んだ活字というのが、『銭形平次』の野村胡堂が書いた子ども向けのチャンバラ小説。友達から借りて読み、面白いと思ったのが初体験。以後、どうしても似たようなものを読みますから、山手樹一郎とか石坂洋次郎とかの作品を読みあさる、読み方としては非常にデコボコで、義務で読むのではなく、好きなものを片端から読みました。

今、若い人は本を読まなくなっているといいますが、大人が心配するほど読まなくなっているのでしょうか。確かにテレビやPC、携帯は生活を完全に変えたので、楽しみが視覚に依存するということはありますが、一方で例えば村上春樹の『1Q84』が数十万部と売れる。ああいう現象は非常に不思議です。なぜ売れるのだろうか、又、買った人が全員ちゃんと読んでいるのかなって思います。

以前、僕らの使った国語の教科書は有名作家の作品の一部を載せて、その解釈をどうのこうのうるさくいう教育でした。ああいうのは全く面白くない。義務で読まされる本、例えば今の課題図書などあまり意味がないんじゃないか。版元には営業上都合がいいですが、課題図書というのは本当に子供が活字に素直に親しむいい機会になるのかな?という気はずっとしています。

僕は漫画、特に手塚さんが現役で描いている時からリアルタイムで夢中で読みました。手塚さんは漫画という方法で、思想というか自分の主張を必ず入れて描く作家でした。漫画家はたくさんいるが、手塚さんみたいに自分の思想をもって書くというのはそれ程多くはいなかったし、先日亡くなられた井上ひさしさんのように、面白くて非常にはっきりしたメッセージを持った人もあまりいなかった。わき道にそれましたが、やはり義務で読む本というのは正直言って面白くない。

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面白い本を探す最短の方法=濫読、乱読に尽きる"役立たず"を楽しむ意味。


結論を言ってしまうと、面白い本を探す方法は、ともかく乱読・(濫読)することです。片端から、これが面白そうだなと思ったらそれを読む、これが一番いいです。もちろん乱読は、題名がよかった、何となく気になった、評判がよかった、などから入ることが多い。更に、乱読してつまらなかった本に当たるという経験はとても大事です。なぜならつまらない本を読んだ経験があると、次に面白い本を見つけた時の感動が違う。人から面白いからと勧められて読むというのもいいですが、自分で試行錯誤して乱読してみることは面白い本を探すのにとても大事な経験だと思うのです。

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何をガイドにするか。新聞や雑誌でも読書欄がある。かつての文学全集の意味。


今の人は比較的乱読をしない。評判だから読もうと思う人が多い。それは定番の出版物がなくなったこともあります。定番といえば昔多くの出版社が出した文学全集というのがそれです。これはオーソドックスなものを揃えていたのと、単行本をまとめて売りたいという出版社の思惑で作られた。でも一応スタンダードなものは必ず入っていましたから、それをひと通り読めば小説がどういうものかはわかったし、面白いとかつまらないとか自分で判断できるようになった。今は文学全集が売れないから出されない。そうなるとスタンダードがないので、自分で探さなくてはならない。

外国では書店に行くとコンシェルジュに当たる人がいます。アメリカへ行った時に田舎の町の本屋さんに行ってもそういう係がいて、こんな本を探しているとか、面白い本はないかと相談すると、その係の人が読者の好みを尋ねて、だったらこういうのはどうかと勧めてくれるサーヴィスがある。最近、池袋のジュンク堂などにその係がいるそうですが、書籍の点数が多いので大変だと思います。

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不純な動機スケベ心こそ読書の原点。親や教師に隠れても読みたいという意欲の問題。


「本を読む」というのは自発的な行為ですから、自分で読みたいという欲求、ある意味でスケベ心が非常に大事です。北杜夫という作家の親父さん、歌人の斎藤茂吉が本を相当持っていた。その中には子供が読んじゃいけない本というのがあった。北さんは学校の友達から、何とかという本はどうもスケベなことが書いてあるらしいと聞かされて、自分でも読んでみたい。親父の本棚に行ったらその本があった。その当時の本はよくできていて、大人向けの本でも難しい言葉には全部ルビがふってある。だからその時わからなくても辞書ひけばわかる。それでともかく夢中になってその場面が出てくるのを期待してずっと読んで、それでも出てこなくて全部読んでしまった。当時の文語体の言葉が立派過ぎて、結局その問題の箇所はわからなかったようなことを書いていました。

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読書は自分の興味を深め、手繰っていく原点。(興味を持つ分野、趣味から入る方法も。)


動機としては非常に不純ですが、読む気というのはスケベ心でも十分起きる。アメリカの作家ヘンリー・ミラーの小説も、わいせつということで評判になりました。読んでみるとわかりますが、全くわいせつじゃない。たまたまそういう場面は出てきますが、言っていることは全然違うので、期待したようにならないのは、読んでみてわかりました。これに限らず親や教師に隠れてでも読みたいという経験は結構ありましたし、それは楽しみで読書を始める、活字に親しむというには非常にいいきっかけになります。実際に高校のころは石坂洋次郎の小説など、ずいぶん読みました。そういう自分の興味から入っていくとか、人から言われるとかではなく、本屋で見てアオリの文句にひかれたので読んだら面白かったとか、そういうことで入っていくのが一番いいと思います。

僕の母方の伯父が少し変わった人で、貸本屋をしていました。彼が店に入れる本は、今から見るととても偏っていました。当時大仏次郎が朝日ジャーナルという週刊誌で連載した『パリ燃ゆ』が単行本になった。分厚い二段組の本だったと思います。叔父はそれが出たとき店に入れて、それを一日5円だか10円で貸す。あんな分厚い本を借りた人が一日で読み終えるわけがない、今考えると不思議です。でも彼が入れた本はそれなりに面白く、ハヤカワミステリなどは全巻ありました。

当時僕は興味がなかったので『パリ燃ゆ』は読みませんでしたが、カール・マルクスの『フランスの内乱』を入社後になって読みました。マルクスが英国にいた時にフランスでパリ・コミューンが起こり、その進行中にマルクスがこれを分析した本ですが、正直言って全然面白くないし、わからない。つまらない本だと思っていました。その後かなりたってから『パリ燃ゆ』を読んで、初めてマルクスが書いた本の意味がわかった。で、再読するとマルクスが書いたことがとてもよくわかる。

大仏は歴史講談というノンフィクションを書くのが上手くて、ドレフュス事件なども書いた。彼は小説家だから、資料を漁った上でキャラクターを立て、物語仕立てで書く。特に『パリ燃ゆ』には力を入れ、フランスに取材旅行して、古本屋の親父があなたは学者かっていう程の資料を大量に集めた。横浜の大仏次郎記念館によくこんなに買ってきたっていうくらい置いてあります。それを全部読みこんで小説を書いた。あれは仏訳されたら、フランス人が驚くんじゃないか。今再版が出ています。お読みになると、パリ・コミューンがどういうものだったかよくわかります。マルクスは半ば学者みたいな人ですから無味乾燥な書き方しかしませんが、これを大仏が歴史絵巻物として生き生きと描いたので、マルクスの書いたことがよくわかったという人が多いと思います。ぼくが働いていた同時代に、大仏次郎が文章を書いていたというのはとても幸せです。

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始めが肝心(映画を見て原作を読みたくなり/作家に興味/主題に惹かれてetc.)


今言ったドレフュス事件などは、フランスで当時エミール・ゾラが『我、弾劾す』というのを書いて政府を糾弾する。ゾラも作家で、世界文学全集だと『居酒屋』『ナナ』だとか入っていました。彼の小説は自然主義リアリズムですから、今読むとちょっと古いですが、描写力と構成力はみごとです。話がここから急に二十世紀アメリカにとびます。1920年代アメリカで"ハードボイルド"という探偵小説の一つのスタイルが登場して、ダシール・ハメットいう作家が『血の収穫』という作品を書いた。物語は、田舎町でやくざ同士が鉱山をめぐって対立しているのを、地元の新聞がとりあげたら、新聞社の人間が殺された。そこで都会から探偵が呼ばれて、やくざの抗争をつぶすためになんとかしてくれないかと言われて動き出す。この小説の発表されたのが1929年、フランス訳が30年か31年に出たらしいのですが、アンドレ・ジイドが読んで感動したといわれます。その理由をある評論家が言うには、ジイドはゾラの小説は読んでいたが、彼の文体は古いと思っていた、ところが20世紀になって全く違う国で、その文体が効果的な小説が出た。それが『血の収穫』だったからではないか、というのです。黒沢明監督の映画『用心棒』の原案はハメットのこの小説です。やくざ同士を戦わせてつぶしちゃう話。彼がハメットを読んで面白いので、あれを時代劇にした。

話を戻します。僕は娘が二人いますが、長女は本好きで、読まれては困るような親父の本まで本棚から引っ張り出して読んでいたが、次女は全く本を読まなかった。次女は映画好きで、高校時代に映画を見に行って、それが面白かったので、原作を読んでみたいと自分で本を探して読んだ。そして原作の方が面白かったと言って、それから積極的に本を読むようになった。親は読めなんてことは一言も言わなかったのですが。でもこうしたほんのちょっとしたきっかけ、テレビドラマになったとかそういうことでも読書が楽しみになるきっかけになります。

篠田一士さんという文芸評論家が昔、筑摩書房で世界ロマン文庫という古典的大衆小説の選集が出た時に書いた推薦文が印象に残っていますが、若い時に例えば『モンテクリスト伯』を読み出したら、面白くてやめられず徹夜で読んだという人が、年がいってから志賀直哉の『暗夜行路』を読んだら全然わからなかった。自分は文学が判らないのではと思ってしまう。確かに『暗夜行路』は優れた小説ですが、小説の本流はあくまでデュマである。夢中になって徹夜してでも読みたいって衝動に駆られるような小説、いい小説も悪い小説もありますが、それが文学の本筋だと彼はいうのです。僕は篠田さんのこの言葉に非常に感心しました。

もう一人、丸谷才一さんという文芸評論家が「やはりエンターテイメントでいうと英・米・仏に限定されてしまう。えこひいきするようだが、面白い小説書かせると彼らにはかなわない、伝統的にそうである」とさえ書いています。娯楽小説の傑作を選ぶと、英米は非常に多い。国民性もあると思いますが、登場人物の性格と話の筋の作り方がとてもうまい。これは推理小説にもいえることで、推理小説は筋がちゃんと立ってないと最後に「何だこれは?」ということになる。独・仏は推理小説が全くないわけではないがそれほど盛んではない。サスペンスものなどになると違いますが、筋書きを立てた、きちんと解決が出てくる小説となるとやはり英米が圧倒的に多い。

精神科医の中井久夫先生とお話した折に、言語構造は思考にとても影響するのではないかと言ったことがあります。人が何かモノを考えるのは言葉に依存するわけです。ところがある考えを言葉で並べて説明する"せりふ"や"文章"は、文法や時制が複雑だと制約が多くなる。その点で英語は、文法的に欧州の言語の中でも構造が極めて単純です。僕は英語が苦手ですが、イタリア語、スペイン語と中国語を習って「あぁ、英語っていうのは単純だ」と思いました。例えば英語だと"私は""私の""私に""私を"の4格しかないのが、チェコ語は7格もある。ロシア語もそうです。更にそれに合わせて形容詞から何から全部、語尾が変わる。そういう構造を持った言語の国に生まれた人間はその言語構造に規定されてモノを考えると思います。SFとかミステリーは、言語的に余計な制約の少ない、いわばいい加減さや理路整然ではない考え方もできる文化の型です。

ドイツでは最近ミステリーという言葉が使われますが、昔は"クリミ"(英語の"クライム")といい、筋立てをきちんと構成して書ける人は少なかった。戦前ではグラーザーを除いて、世界的に有名なミステリ作家は出ていない。ドイツ語は哲学などだと表現しやすい言語なのでしょうが、言語構造がモノの考え方に与える影響が大きいんじゃないか。SFでもそうですが、あれはもう過去とか未来とか時間と空間を自由に飛ぶってことを平気で思考の中でやってしまう。ところが文法の時制というのは英語以外の言語では非常に複雑です。

欧州の言語は、過去完了・現在完了何とかの他に仮定法だとか条件法など時制と関連して複雑だから、それが足を引っぱって想像が広がらなかったのではないか? 英語は言語構造が比較的に単純だから、未来に飛ぼうが過去に飛ぼうがそんなことは全然関係ない。SFというと嫌いな方が多いですが、それなりに面白くて、ウェルズをはじめ、小説として素直に読めるって作品を書いた人は英国にもアメリカにも多い。また女性のミステリ作家もクリスティをはじめ、たくさんいます。

よく版元名を見て、刊行物をその社のイメージで判断することがある。これも一種の見方で、例えば岩波文庫は古典のイメージがかなり強く、僕が知っている編集者でも、岩波はあまり読まないという人がいました。僕も最初そう思っていましたが、最近、ここが非常にとんでもない本を文庫に入れている。一つだけ紹介すると、平田篤胤という国学者が書いた本で『仙境異聞』という本。これはトンデモ本の元祖みたいな本で、勝五郎という男が天狗にさらわれ、天狗の修行場に連れていかれて日本の各地を飛び回って帰ってきたといわれて評判になった。平田篤胤はカルト好きな人だったようで、わざわざ彼に取材して聞き書きしている。彼は国学者で国粋的なことを書きましたが、その人がこんな本を書いたのかというくらい面白い本。岩波文庫で題名が『仙境異聞〜勝五郎再生記聞〜』なので、固くて難しいのではと思うかもしれないが、非常に面白い。ことほどさように版元を既成の印象で見ない方がいい。とくに岩波は最近そんな面白い本を入れています。

また話が飛びますが、二十世紀末からラテンアメリカの小説が多数翻訳され、ノーベル文学賞受賞のガルシア=マルケスを筆頭にして多数翻訳された。最も有名なのはガルシア=マルケスの『百年の孤独』という小説。これは伝説と現代がごっちゃになったような物語ですが、実はマジック・リアリズムといわれるこうしたラテンアメリカの小説最初の作品は、メキシコのフアン・ルルフォという人の『ペドロ・パラモ』という短い一種独特で幻想的な小説で、読んでいくと、最後に全貌がわかってきます。彼はもう一つ『燃える平原』という短編集を出しただけで、あと小説を発表していないから、ほとんど知られていませんが、岩波文庫はこれも収録しています。

ラテンアメリカ大陸は、飛行機で1時間飛ぶと1万年の時空を飛ぶという言い方をされますが、リオデジャネイロのような大都会から密林を超えると原始のままの原住民が住んでいる。そういう場所を舞台にした小説だから、文明国が舞台の小説と違います。集英社でラテンアメリカの文学が刊行された中に、キューバのアレッホ・カルペンティエールの『失われた足跡』というのがあります。ある種の桃源郷の物語です。長い小説ですが、面白いだけじゃなくて、南米という風土でないと絶対に成立しない物語で、多分ガルシア=マルケスより面白い。

また『カモメに飛ぶことを教えた猫』という小説がやはり以前ベストセラーになった。これを書いたのがチリのルイス・セプルベーダという作家。彼の『ラブストーリーを読む老人』という短い小説があります。やはり密林が舞台の話で、最後の余韻の残し方が非常にうまいと感心しました。主人公は奥さんに先立たれた老人で、彼の唯一の楽しみは大衆的なラブストーリーを読むことで、密林で独り暮らし、1カ月に一二度町に出てそういう本を探して、帰って密林の中の粗末な家で読んでいる。そこに文明の開発の波が迫ってくる。鋭い文明批評を含んでいる作品です。

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短篇小説は"原始時代の洞穴の中での焚き火を囲んでの話"が起源(W・S・モーム)。


次に短編小説ですが、これは短ければ短いほどいいというのが僕の考えです。ですから読む時に最初に目次でページを計算して一番短いのから読む。英国の作家サマセット・モームが自分の気に入った世界の短篇を集めた『世界文学百選』という本を編集した。これは傑作ぞろいです。現在べつの題名で7冊本で河出書房から出ている。昔、河出のグリーンの世界文学全集で、別巻として5冊で入っていた。あの全集は箱が全部グリーンで、本の装丁もグリーンでしたが、この別巻だけは本がクリーム色の装丁でした。別巻にはダフネ・デュ・モーリアの『レベッカ』も入っていました。

余談ですが、従妹がたまたまこの小説を持っていた。遊びに行った時に『レベッカ』っていう題名だけ見て、どうせ少女小説だろうと僕が言ったら従妹が怒って「読んでから文句言いなさい」と言われ、下宿へ帰って読み始めたらやめられなくなり、徹夜で読みました。ヒッチコックの映画より小説のほうが断然面白い。彼女は面白い小説を多数書きましたが、あの小説、女の人でないと絶対書けない。うまいなあと思います。読んでいてやはり英国人だなと感心しました。

でまあ、短編小説の話ですが、高校時代に角川文庫に入っていた、中国の清の時代の蒲松齢という(役人になりたくて試験を受けたが次々落第した)人が自分のところに来る旅人から聞いた話を、メモして本にした。これが『聊斎志異』という本で、僕の高校時代、角川文庫では当時8冊でしたが、今では合本して4冊になって時々古本屋で見かけます。その中の面白い話だけ選んだのが上下2冊本で岩波文庫にあります。バケモノ話が主体の不思議な物語が四百余編あって、どれも数ページの短篇ばかり。芥川龍之介とか太宰治がこの本を愛読したというのを聞いて、なるほどと思いました。時間つぶしには最高にいい。『今昔物語』に匹敵する面白さです。

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翻訳書は訳者で印象は決定的に変わる。特に詩歌の場合は違ってくる。新訳がでる一つの理由。


『聊斎志異』は平凡社ライブラリーでも出ていますが、僕は柴田天馬訳の角川の方が好きです。柴田は学者でも翻訳者でもなく、当時満鉄の社員でした。中国語ができたので勤務先で読んで面白いから訳した。その訳は、例えば中国の漢字の言葉「従僕」に"ボーイ"とルビをふったり「深夜」に"まよなか"とルビをふったり、独特の訳をしている。確かに翻訳としては問題があるかもしれないが、それが面白い。柴田天馬の翻訳はこれしか知りません。

昔、修道社という出版社が赤い表紙の本で出していました。僕が中学生の頃に伯父の家に全巻あって、僕はその当時『聊斎志異』なんて題名の言葉が硬いし興味がなくて読まなかった。高校になってこれの文庫版を書店で立ち読みしたら面白いので、全巻読みました。最初の8冊本には中国の原書の挿絵も入っていました。後の4冊本はそれをはずして井上洋介さんのイラストにしてあり、あまり感心しなかった。外国の本は翻訳で面白いかつまらないか、が決定的になります。

最近は出版社もそれを考えて、この作家のものはこの翻訳者、と決めたりしています。最近なくなった英国のディック・フランシスの競馬を主題にした小説を訳した菊池光さんは、自分が好きでその小説を選んで翻訳をして版元に持ち込んだそうです。硬質ないい訳ですが、女性で読んだ人にきいたら、「私には合わないわ」。このように訳書は翻訳者によって印象が変わります。菊池訳のロバート・パーカーのシリーズなどうまいと思いますが、別の人が訳したのは全然つまらない。翻訳はとても大事でほとんど面白さ、つまらなさを決めてしまう。例えば、アメリカのある作家の短編の題名『音もなく降る雪、孤独な雪』、これは"サイレント・スノー"の訳で、「静かに降る雪」と訳すこともできる。でも「静かに降る雪」と「音もなく降る雪」は微妙に違う。日本人ならわかる違いです。そういう違いが分かる人が訳すと非常にいいが、わからない人がやると全然面白くない。これは決定的に印象が変わってしまうので、たとえば詩などの場合はそれが特に大事です。

ドイツのパウル・ツェランという詩人が、ユダヤ人だったので戦時中強制収容所に入れられた。戦後、解放されてフランスのパリに移りましたが、結局セーヌ川に入水自殺してしまいます。この人の詩を日本で何人かが訳しています。僕は飯吉光夫さんが訳したのはいいなと思いますが、他の人の訳はだめなんです。これは読み手の感覚の問題でもあって、詩人が言いたかったことをどういう風に表現するかということになると、一つ一つの言葉が決定的に大事になります。

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長篇小説の読み方。それを書いた人間がいるのだから、読み終えられないわけがない。


最近ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を亀山郁夫さんが訳して評判になりました。僕の世代だと米川正夫さんが訳したものでした。特にロシアの小説は、登場人物の名が覚えにくい。名前もそうだしあだ名で言ったりするとまた混乱する。そんな事でひっかかると、ロシア文学を読みたくなくなる。でもロシア文学のどれもがドストエフスキーみたいな小説ではない。20世紀になってからショーロホフがノーベル文学賞受賞した小説に『静かなドン』があります。最初はドストエフスキーみたいな作家と思っていたが、これが非常にはらはらして面白い。ロシア革命が背景の話ですが、革命を謳い上げる話ではない。主人公は農民のグレゴリー・メレホフという男で、彼が住んでいた村に内戦の戦禍が迫り、赤軍と白軍がドンパチやる。彼はどっちへいったらいいのかわからない、その彷徨を書いた話です。政治や社会を知らない人間がそういう事態に巻き込まれたらどうなるかを、ショーロホフは非常にうまく書いている。最初登場した人間が途中で死ぬと、後は一切想い出も何も出てこないというドライな書き方がされて、戦争とはこういうものかと極めて印象に残った。確かに長いし、読む機会がなかなかないと思いますが、敬遠せずぜひ読んでください。

有名であっても、あまり勧めないのはプルーストの『失われた時を求めて』。これはたいていのガイドブックで推奨している。推奨した人がホントに全部読んだのかと疑問に思いますが、正直なところ面白いとは言い難い。あれは読み方によると思う。『失われた時を求めて』を読みたいと思う方は、筋を追わずに、マルセルという男の成長過程での恋愛遍歴を書いたものだと思って読むのが秘訣です。作家は自分が体験した恋愛経験を、主人公に託して描いた。普通、恋愛小説というのは主人公と相手の動静くらいしか書かない。ところがこの小説では物心ついてからの主人公の生活が、その時代の雰囲気や歴史や事件、家の中の調度、家族近所親戚友人、物から何からあらゆる出来事から主人公の心情まで残らず全部書かれる。小説は1ページの文章が上から下まで全部びっしりある。ちくま文庫では一冊千ページで10冊。読む時に、そういうふうに書かれていることを頭に入れて読めばいいかも。但し最後まで読み通せるかどうかは、努力次第ですが。

もう一つ、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』も、正直言って面白くない。一種の実験小説で、レオポルド・ブルームという男の、ダブリンでの朝から夜までの一日の話で、何も起こらない。登場人物の意識の中にあることを連綿と書いたから関係ないことが次々出てくる。今、日本で4人の訳者による共訳が文庫4冊各1000ページぐらいで出ている。ところが訳注がその三分の一ぐらいついていて、読みながらいちいち後ろの注を見なければならない。

大長篇でもどうせ読むのならこの他にオーソドックスに筋立てのある話、例えば『モンテ・クリスト伯』だとか、ドライサーの『アメリカの悲劇』などがあります。『アメリカの悲劇』は今読んでも、なまなましい小説です。主人公は貧乏人の牧師の息子で、ブルーカラーで恋人のロバータができるが、途中から富豪の娘サンドラと知り合って彼女に惹かれ、妊娠したロバータが邪魔になって湖に連れ出して殺してしまう。ドライサーの文章は少しくどいが、よく書けた小説だなと感心して読みました。また余談ですが、ミステリーで、アイラ・レヴィンの小説に『死の接吻』というのがあります。これは映画化もされましたが、結末を除くと『アメリカの悲劇』によく似ている。多分これはレヴィンがドライサーを読んで着想を得て書いたのだと僕は思っています。

さて日本の作品ですが、『日本沈没』の小松左京の長編『果てしなき流れの果てに』『日本アパッチ族』が傑作です。後者は戦後の大阪が舞台のドタバタSF。後に朝日ジャーナルで高橋和巳が連載した『邪宗門』はこの『日本アパッチ族』と筋立てが全く同じなので、小松が後に高橋に(彼らは同じ同人誌の会員だったので)「お前、俺の小説をパクッたな」と言ったら「ばれたか」と答えたのでわかった。勿論この二つの小説は全く違います。『アパッチ族』は戦争で家を失った人々が大阪の砲兵工廠跡で生活している、そこが国有地だから出ていけと追立てを食らうが、行き先のない彼らは籠城して出ていかない。戦後実際にあった話を、小松左京はSF仕立てにしている。

籠城した連中は食べ物が無くなり、ぎりぎりまで追いつめられる。砲兵工廠だから鉄はいっぱいある。ある日、飢えて我慢ができないアパッチの一人が鉄など絶対食えないだろうと思って食うと、サクッと食える。立て籠もって飢えた連中は鉄が食えるようになる。彼らは食鉄人種と言われ、鉄が食えるので籠城を続ける。彼らの食った鉄が、鋼となって出てくる、これでもうけようと思った政治家が目をつける。小松は、非常に現実を面白い形でひねって、とんでもないことになるのを書くのが非常に巧みな人。一方高橋はこれを宗教団体と国家権力との争いにして『邪宗門』を書いた。

同じ小松の初期の短編で『紙か髪か』というのがある。これは紙というものを媒体にした文明批評です。人間は、こんな薄っぺらなものに全ての歴史を刻んできた。証文からお金から証明書から何から全部紙でできている。ところがその紙がなくなったらどうなるか、彼はそれを物語にした。小松の短編集は今でも文庫に入っているので『紙か髪か』をさがして読んでみてください。この人の話で例えば『召集令状』とか『戦争はなかった』とか『廃墟の彼方』などはSFですが、本当に優れた反戦小説です。文明批評というのが明確にあります。彼はもともと漫画家を目指していましたが、手塚にはかなわない、とやめてしまう。漫才の台本書きなどをして、書いた小説をSFマガジンに送った。福島正実という編集者がこれを読んで面白いということで、そこからスタートする。やはり手塚と似て、小松にも文明批評が頭にあります。星新一などもそうですが、そういう作品も最近では高校の教科書に入っている。僕は読んでいませんが星新一の作品が入っていると、「ああ、いい傾向だ」と思います。文章を読ませる時には面白いものじゃないといけない、と思います。

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ノンフィクションの読み方。事実に基づいて書かれたものであっても、解釈は執筆者で変わる。

小説の話ばかりしましたが、ノンフィクションでも面白いのは多数あって、例えば『火星の人類学者』というのがある。オリバー・サックスという『妻を帽子と間違えた男』『レナードの朝』等を書いた、医学系のジャーナリストです。『火星の人類学者』がどんな本かと言うと、例えば画家が交通事故にあって色覚を失った、そうするとその色覚を失った人が画家として再生するまでを追いかけている。これは実在の画家のことですが、人間の体というのはどれほどすごいかということを書いている。その他の話には自閉症の子供の物語が印象的です。黒人と白人の間に生まれた子で、親が育児を放棄したために、子供のいない夫婦が引き取る話です。

その子は絵を描くのが好きだったので、育ての夫婦が、外でいろいろな所やものを見せようと連れ出す。しかし外で建物や車などを見せても一瞬ちらっとみるだけで興味も示さない。両親はがっかりする。ところが帰宅後にその子が描いた絵を見ると、あのチラッとしか見ていない建物を緻密に描いている。それを見た両親が驚いて、この子は普通の子じゃないと判って、彼を改めていろんな所へ連れて歩くのですが、どこでもチラッとカメラで撮ったぐらいしか見ない。しかしその場面を全部記憶していて精密に描く。実際にその子が描いた画集が出ています。

後で自閉症研究家の佐々木正美先生と仕事でお付き合いした折に、先生が言うには、自閉症児にはそういう特性がある。自分にもその傾向があり、例えば教科書を開いた時に、普通は文章を読んで中身を知ろうとする。ところが自閉症児が見る時は、全体をカメラで捉えたような記憶になるそうです。佐々木先生は東大の医学部を出た人ですが、「僕は試験でも苦労しなかった。なぜかというと、教科書を見開き単位で憶えているから、記憶を辿るとそのページがそっくり浮んでくる」。実際に自閉症児にはそういうところがあるそうです。この他にも双子の自閉症児の興味深い話が出ています。『火星の人類学者』には、そういう話が10ぐらい載っています。事故を起こした、病気をした、ケガをした、致命的な打撃を受けた、にもかかわらず再生していく人たちの実話。読むと人の見方、世の中の見方が変わる、というのは大げさではなく、本当にあるのです。

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伝記の面白さは人がいかに奇妙な動物であるかを探る面白さ。過去が人を通じて再現される。

世界で一番有名なのに、ほとんどその実像が知られていない人がいます。キリストの伝記『誰も知らない男』は1924年に書かれた本ですが、つい最近も邦訳が出た、なぜイエスは世界一有名になったかという本です。書いたのは学者でも宗教家でもないブルース・バートンというアメリカの広告代理店の社長。実はこの本は20年程前に、有斐閣という法律専門の出版社から『イエスの広告術』という題名で出ました。たまたま天野祐吉さんが雑誌「広告批評」の編集長だった時、『イエスの広告術』の特集をしたのです。彼が興味を持った理由は、僕らが思っているイエスは磔にされた青白い顔の痩せこけた、苦悩に満ちた男っていうイメージがあります。でも聖書を読むとイエスがもしそういう弱い男だったら、あんないろんなところに行って説教するエネルギーは持っていなかっただろう。バートンは、子供時代に聖書で読んだイエスの行動と、教会に飾られたイエスの情けない姿を見て、おかしいと思った。でも誰もそう言わない。それ以前に出たイエスの伝記は多数ある、例えばフランスのルナンの『イエス伝』をはじめ、日本でも遠藤周作さんが書いている。

しかしそれは、イエスの死後千年以上もたってから書かれた伝記で、聖書にあるアクティブなイエスではない。バートンは子供時代からの疑問を持ち続け、聖書に出てくるイエスはもっと体力的にタフな男で、村をいくつ回り歩いても決してへこたれない男だったに違いないといって、聖書をもう一度読み直して書いたのがこの本です。なぜ天野さんが注目したかというと、イエスは説法の時にくだくだしい複雑なことは一切言わず、一言とか二言「○○してごらんなさい」とかしか言わない。でも学問のない人間が聞いてもわかることを言う。バートンは広告会社だからコピーを考える仕事です。天野さんに言わせると、イエスは実は優れたコピーライターだった。そういう解釈でこの本は書かれている。読むと彼が言うことも一理ある。この人以前に書かれたイエス伝に比べたら、この人の書いたほうがはるかに生き生きとして面白くてリアルです。これと関連しますが、日本で田川建三という人が『イエスという男』を書いています。この本のイエスは、思想的にしっかりしたものをもった、がっしりした男として書かれています。弱っちいイメージの男と思われていたイエスを、こう解釈をしている人もいるということを言わせてもらいました。

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ベストセラーは行列のできる食堂と同じ。平均はつまらないし、発行部数は余り意味がない。

『失楽園』という小説がありました。話題になって図書館も利用者の要望で入れた。こういう本は時間をおいて改めてチェックする習慣が必要です。無駄な小説を読む必要はない。冷静になって読む価値があるかないか。例えば三百万部発行したとかという本ですが、買った人は実際どれくらい読んでいるのか疑問です。流行で買うことはあると思いますが。出版社の目標は、普段読まない人が買ってくれる本を作る。普段読む人は買ってくれるから問題ない。本を読まない人に買ってもらえるような本を作るのが、出版社の使命みたいなもので、版元から見れば『失楽園』『1Q84』も商品で、『1Q84』に便乗して平積みで隣に置かれたジョージ・オーウェルの『1984年』も一緒に売れたりしている。これは当時のソ連のスターリン主義の世界を拡大した未来を描いた話で村上の本とは無関係です。あれが売れたのはびっくりした。一体どこを見て買ったのでしょうか?

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作品・作家・作風などについて一般的な評価を信じない(万人が認める面白さというのはない)。

また反対に、だまされた思って読んでみるのも必要かもしれない。出版社も何とか売りたいから題名も帯のアオリにも苦労していますから、そこからくみ取れるものもある。ガイドブックなどは特に買う必要ない。終わりに参考までにあげましたが、本屋に置いてある各社の文庫本のカタログなどで十分です。但し版元が出すカタログは、どうしても「ヨイショ」が入りますから、それを見極めるために、ある程度やかましい人がチェックしたガイド本を図書館などで見るといい。例えば中野翠さん、クセが強いから好き嫌いがあると思いますが、この人は「いい/だめ」とはっきり言う。立花隆さんは、例えばノンフィクションの歴史物・データもので索引の付いてない本はダメだと言う。索引がないと後で興味のある部分を探すのに苦労する。彼は編集の経験があるからよく知っていて、ダメかいいかの選別に読者の立場でうまい所に目をつける。そういう経験のない編集者が編集した本はすぐわかる。後ろの方のページが空白でPRもない。これを作った編集者は熱心じゃないと思う。少なくとも編集者なら自社の本を売りたいから、PR入れるぐらいの手間はかける。

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読み手について(優れた作家はまた優れた読み手であることもある。面白本を探す手掛かりに。)

後掲の「読書ガイド・ブックリスト」の太字は、文庫本や新書版で入手しやすい本を選びました。例えばモームの『読書案内』『世界の十大小説』は当然、彼の時代以前の作品を選んでいるので、今では少し古いですが、彼自身が作家で面白い小説を書いたから彼の選択は役に立ちます。中で『カラマーゾフの兄弟』もあげている。彼ははっきり言って暗い、とても重い小説だと書いている。それはその通りですが、モームは何故これが優れているかということをきちんと書いている。やはり「うまい作家でうまい読み手」というのはいます。ヘルマン・ヘッセだとか、ヘンリー・ミラー。

ヘッセの本は『ヘッセの読書術』が草思社から出ていて、これは巻末に「ヘッセがあげた本のリスト」が載っていて、結構面白い選択です。ミラーは『わが読書』で彼の読書遍歴を書いていますが、特に巻末の彼が影響を受けた本のリストが面白い。これには東洋の哲学書から、ライダー・ハガードの『洞窟の女王』まで出ている。『洞窟の女王』は英国の大衆小説で、アフリカの密林の奥地に、古代のままの文化をもった人間が住んでいて、そこに主人公が探検に行くと、その女王が2000年前から生きているのに若いままなんです。昔のアフリカの密林のイメージが鮮烈に出てきます。描写もうまいし。僕はああいう小説を書く想像力というのがすごいなと思いました。

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書評について(ひも付き、パブリシティ、ヨイショを見分ける。)これと思う本を見つける足場。

新聞の書評を参考に買う方も多いと思いますが、気をつけなければならないいのは「ヨイショ」がある。あれはタダで本を読んで、長所をほめる。それはいいが、やはり欠点のある本があるし、全然だめという本もある。そんな時にそれをちゃんと書かない。もちろん書けないこともあるが、「ヨイショ」であるかどうかを見分ける練習をする必要がある。パブリシティの場合は、出版社がお金を出して書評家などにもっともらしい記事を書かせるが、実は広告なんですね。そういうこともあるので、初心者は他の書評も読み、書店へ行って、ためつすがめつ確認したほうがいいです。

また優れた読み手で感性が近いと感じる作家がいたら、その人の書評は比較的当たりだと思います。例えば亡くなられた結城昌治という作家は推理小説はじめいろいろ書きましたが、彼の書評でたまたまある英国作家の冒険小説が面白いと書かれていた。僕は本来そういうのを読んでもあまり気にしないのですが、彼が推薦していた本を買って読んだら、これがとても面白かった。数年前亡くなったギャビン・ライアルという作家ですが、初期の小説が非常に面白い。パイロットが主人公の話だが、うまい小説です。一番いいなと思ったのは『最も危険なゲーム』という、北欧のフィンランドを舞台にした小説ですが、その中に登場するアメリカの富豪の女の書き方がうまい。それだけで何度も読みました。彼の『深夜プラス1』は内藤陳さんが大好きで、これは第二次大戦中にフランスでレジスタンスをやっていた連中を支援した英国人が主人公のボデイガードの物語です。

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出版社と書店に未来はあるか? ブックオフは?  PCはどうなるか? オンデマンド本は?

今、本が大量に出て、コンシェルジュもいないし、1週間たつと店頭の本が全部変わってしまう。引っ込められた本は版元の倉庫へ帰る。版元がその売れ行きを見て売れないと少しずつ断裁する。商品として持っていると税金がかかるからです。よくある、"〇〇ありますか?"と版元に聞くと、"品切れです"と答えられるケース。品切れというのは実質絶版状態です。だから僕は出た時に、特に文庫で古典はすぐ買う。なぜなら、非常に残念ですが、すぐ絶版または長期品切れになる危険性があるから。オンデマンドなら手に入ることはあるが、古典で面白そうなものは、その場で買っておいた方がいい。ネットで古本は手に入りますが、それでも全然出てこないという本も多い。

前にコミックの話をしましたが、コミックもたくさん出しすぎて、結局出版社自身が足を引っぱっている。昔だと漫画はどちらかといえば、下らない、だめだと言われましたから、版元も精選して、これなら売れるというものだけを出した。ところが現在のようにブームになると、とにかく雑誌連載中から単行本を出す。更に悪いことに優れたシナリオライターが圧倒的に不足しているテレビが漫画に目をつけて安易にドラマ化する。ところがそのドラマが終わってしまうと原作の単行本の売れ行きが落ちてしまうんです。だから版元も用心して、なるべくそうならないようにしていましたが、今は逆にそのドラマを広告のように考えて、売り出す。悪循環です。

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流行に合わせて探す本は、新刊である必要はない。少し時間を置いて見たり考える習慣をつける。

書店も数が減って、今後は出版事情が厳しくなり、精選して出すようになるかもしれない。今までは出せば売れたが、こういう社会情勢だと簡単に売れなくなるでしょう。どうしても本来のように精選して売らないとだめになる。最近の話題では井上ひさしさん、米原万里さんが亡くなられたこと。これは大損失だと思います。米原さんが書いた書評『打ちのめされるようなすごい本』、あんなに多忙な人がよくこれだけの本を読まれたなと感心します。たまたま彼女の回顧展を市川で見てきました。この人の小説で『オリガ・モリソヴナの反語法』というのがあります。実話ではないかと思うような作品で、興味があったらぜひ読んでほしい。彼女みたいな人がいてくれたらもっと出版界もよくなったのではないかと思うぐらい、大変な才能の持ち主です。彼女の経験した同時通訳について書いた『不実な美女か貞淑な醜女(ぶす)か』や、下着について書いた『パンツの面目ふんどしの涸券』は文庫で読めます。面白くて鋭く、幅広い教養と知識とおかしさに満ちている。

さて、本のガイドブックは英米ではたくさん出ていて、僕は1、2ダースほど持っています。これにはその編集者による作品評価も出ています。〇〇を読んで面白ければ、類書に××という本もあると、他の作家の本の紹介や、映画化されたものはDVDの紹介まである。結構実用的です。丸善などに行くと置いてあります。本はネットだと手にとって見られないから中身がわからない。ネットは、「あなたが今までにあげた本」というのが脇に出ますが、書店で探すような形にはできない。書店で本を探す時、偶然その隣に目的とは全然関係ないが、興味を引くような本を見つけるということは書店ではできるがネットではできない。書店での楽しみは、何を読もうかと思っている時に思いがけない本を見つけることです。ネットだとそれができない。書店にはそういう楽しみがある。

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写真集や画集、子供向けの絵本には、文章とは違う独自の表現がある。立ち読みでも印象に残る。

もう一冊変な本を紹介すると、『俺がエルビスだ』という写真集。エルビスの好きな歌手たちが彼に扮している写真集。これは書店に行かないとわからないから、見た時に感動して、ばかみたいな本だが買ってしまった。書店だとこんな本に出あうこともある。日本で何回か展覧会をしたエリオット・アーウィットというアメリカの写真家、この人はマグナムのメンバーで写真集も日本で『我輩は犬である』という題名で出ています。彼の写真はユーモアがあってとても面白い。今まで文章の話しかしませんでしたが、写真もいい。写真集は高いですが、丸善などだとパラパラ開ける見本を置いてある。今ならブラジルのセバスチャン・サルガドなどの写真集は、ひとつのショットが原稿用紙百枚使っても表現できないようなものを表現している。そういうのを見るのも書店での楽しみだと思うので、書店に行った時はそんなふうにいろいとと寄り道されると結構面白いでしょう。

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【 質 問 】

☆ 大西さんは外国文学のほうがたくさん読まれたのでしょうか?

そうでもないです。夏目漱石、幸田露伴、泉鏡花、夢野久作、片っ端から読みましたが、今回は海外の本を読んでもらいたいと思ったので、海外を中心にしてお話しました。『失楽園』の話をしましたが、不倫の話なら名作といわれる世界文学には沢山ある。例えば『アンナ・カレーニナ』『ボヴァリー夫人』『アンナ・カレーニナ』の話は長いが、読書案内には必ず出てくる。余談ですが、ハリウッドである駆け出しのシナリオライターが映画会社に作品を持ち込んだら、プロデュ―サーが多忙で「要約してもってこい」といわれ、要約を持っていくと、一言でわかるように説明しろ、といわれる。それで、ある軍人の奥さんが夫の友達と浮気をしている話だっていうと、プロデューサーが「何だそれは『アンナ・カレーニナ』と同じじゃないか」っていうんですね。でも要約したら小説は大抵みなどれも似たような筋になってしまう。名作文学の要約が出ていますが、小説は要約したものを読んでも意味がない。なぜなら余計なところ、要約できないところが面白いからです。だからその余計なところが面白いことを知っていないと読書はつまらなくなります。

海外作品を読んだのは、仕事の関係でもありました。第1次世界大戦について知りたいと思い、ヨーゼフ・ロートという旧オーストリア帝国の作家の長篇小説『ラデツキー行進曲』を読みました。これは祖父、父、息子三代にわたる軍人一家の物語です。これを芥川賞作家の柏原兵三が訳したのを読んだのです。これを読み終える頃になると、頭の中にあのラデツキー行進曲のメロディーが鳴り出す、というか聞こえてくる。ぼくは音楽には殆ど興味も知識もないのですが、頭の中でこの曲が流れてきたときには驚きました。こういうことは不思議だし読書の楽しみでもあります。

日本の作家の話を少しすると、例えば太宰治は〈愛と苦悩の作家〉といわれましたが、読むと短編小説もうまくて、トリッキーな小説を書く。例えば出だしで「小説が書けない」でまるで読者に自分の苦労を告白するような形で始まって、それでいながら最後にいくとちゃんとオチがあって仕上がっている。読者を作品に誘い込み、いわば騙す。志賀直哉が太宰の作品にケチをつけたことがある。太宰はそれに反論していますが、短編小説は志賀より太宰のほうが断然面白い。苦悩のイメージが先行していますが「とかとんとん」なんて話は、昔クレイジー・キャッツの谷啓がやっていた"ガチョーン"と同じです。「とかとんとん」と聞いたとたんに今まで真面目腐ってきちんとやっていたことが、ガラガラって崩れるという面白さです。太宰を青春の苦悩を描いた作家というレッテルは疑った方がいい。彼はとてもサーヴィス精神のある面白い小説を書いたプロ作家だと思います。

☆ 編集者として読む本と、面白いと思う本は違いますか?

医学書担当の時は関連医学書を読み、海外推理小説担当の時は翻訳ものを読みました。本は好きですから、実用技術書や法学や経済関係などの本でなければ、どれも楽しく読めます。たとえ仕事に関係した本でも、どこかに自分が興味を持てることがらが出てくる。それが見つかれば仕事の上でも役に立つし、作者や訳者との打ち合わせや内容検討にプラスになる。

読む技術といえば、速読術はやめた方がいい。あれは、話の筋を覚えても、その本で作者が読者に手渡すメッセージは伝わらない。ゆっくり読んでも早く読んでもいいが、速読術は楽しみのための読書には意味を持たない。「読書百遍、意自ずから通ず」と言いますが、ある時その言葉を思い出すことがあって、あ、このことばってこのことだったんだって、別々に考えていたことが重なり合うということがあります。子供が本を読む時、理解させるよりも前に、音読させる方がいいと思っています。素読をさせる方が言葉の美しさ、リズムを理解する。リズムのある、面白い文章を書くためにも声に出して読むことは必要です。文章がつまらない人はリズムがない。文章にリズムがある人の作品は面白い。筒井康隆などは意識的にそういうことを作品でやっていますね。

☆ リズムといえば、最近の『世界の中心で愛を叫ぶ』とか読んで感じていることは?

あれは僕の在社中に同じ編集部の編集者I君が担当しました。残念ながら僕は読んでいません。あの本はかなり売れました。僕はへそ曲がりだから、ベストセラーより前に読む本が沢山あったこともあって読まなかった。同じく編集部でベストセラーになった本では嶽本野ばらの『下妻物語』が面白かった。S君という若い編集者が担当しました。僕は資料室で借りてきて読みました。市川拓司の『今、会いにゆきます』、も読みましたが、あまり興味を持てなかった。世代と好みの違いでしょうか。僕の好みが偏って固まってしまっているからかもしれません。

「神は細部に宿る」といいますが、優れた作家は僕らが気付かない細かい部分に非常に気を遣って書き、言葉の一つにも多くの意味を込めている。現代の作品は本筋に無関係な情報を沢山入れたりする。言葉を選んで書く点では、今の作家はあまりうまくないという気がする。でも志水辰夫や『テロリストのパラソル』を書いた故・藤原伊織などはうまいなと思います。余計なことは書かず、余韻を残す書き方が実にいい。漫画でもそうですが、肝心な部分を書かないで、それを見せる方法があります。映画でもよく使われますが、漫画でもそのコマだけまっ白にしちゃうようなやり方。そういう描き方をする人がいる。言葉と情報とくどい描写をやたら使うのは面白くない。

☆ 志水さんの『行きずりの街』について

志水辰夫さんは『微笑』という女性誌で、アンカーをやっていたそうです。その時に北方領土の話を記事にするので資料や地図を集めた。そうしたらその企画が取りやめになってしまったので、手元に残った資料を基にして小説を書いた。それが彼の処女作で『飢えて狼』。K社で最初に出したのを文庫にまで入れたのに絶版にした。それをすぐS社が目をつけて、文庫で次々出しています。T文庫にも1、2冊入っています。彼がある時インタビューに答えて、自分の小説は年上の人に好まれるようだと言っています。やはり文章の良さが響いているんじゃないか。「シミタツ節」と言われる文体ですが、リズムがあってうまいです。いくつか冒険小説の形で恋愛小説を書いていますが、最近はさすがにミステリーを続けるのがしんどいのか、時代ものを手がけているようです。

☆ 編集とはどういうことをするのですか?

僕は翻訳書担当だったので原書を読み、これは〇〇さんに頼んだら面白いのでは、と訳者を編集が選んでお願いしました。執筆者がベテランならば、世間が興味を持ちそうな主題を相談して選び、原稿を依頼するとか、雑誌連載のものを単行本化するとか、します。また、新人の場合でもそういう主題選びや設定を編集者と相談して作ることもある。または向こうが持ち込んだものを読んで、こうしたら面白いとか、ここをこう直したらとか、工夫し直して繰り返す。何回も繰り返しそれをやる。編集者でも本が出来てしまうと、後は販売と営業がやればいいんだから、と何にもしない人がいる。今の編集者も営業もだめだと思うのは、編集者が販売促進をしないし、営業がゲラを読まない。昔はゲラの段階でも直させた。つまり版元は商品としての本をよく知っていた。ところが、今は本ができると編集はその後をフォローしない。後は販売と宣伝がやればいいと。販売と宣伝は担当者が作ったアオリ文句と粗筋だけで動くから、その作品で一番面白いところが伝わらない。それを一番よく知っているのは編集担当者なのに動かない。これでは売れるものも売れない。またどの版元も本を出しすぎている。これでは読者が混乱するし、第一、資源の無駄遣いです。人が本を読むスピードには限度があって、たとえ本を購入しないで図書館を利用しても、一週間、一か月、一年で読める冊数は限られている。ただやたらと出せばいいというものではないでしょう。

それから編集者にはふたタイプあって、名のある人におまかせで書いてもらう人と、事前に細かく打ち合わせをする人とあります。K社などは、一人の作家に担当者が二人つく。なぜかというと、会社の中で例えば人事移動があったりして、どちらかが担当から外れても片方がいると、その作家とのつながりは切れない。僕のいた社はそれがないので、担当者が異動になると作家との縁がきれてしまう。複数担当制を採用したK社は経験があったからでしょう。また、よく読んでいる編集者と読まない編集者とがいます。これは活字の本に限らず、漫画編集部などでも同じで、編集長が嘆いていました。S社などはさすがに文庫にいい編集者がいるようです。だからK社が絶版にした志水さんの小説をS社が文庫にいれた時にはやっぱりと思いました。これは読者を長くひっぱれると思ったからいれた。それが冒険小説協会賞を受賞してから以前の小説までが売れるようになった。

終わり

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(付) 読書ガイド・ブックリスト (資料) '10・04・17
   (但しお馴染みの絶版・品切れも多数含む。)

※太字は比較的簡単に手に入るもの

【 おことわり 】 雑誌の読書特集や増刊号の読書案内は省略しました。

以上

<スタッフ>
テープ起こし:山中昌江
HTML製作:山野井美代
写真撮影  :山中昌江
お問い合わせ:  NPO「大人の学校」
住 所:  さいたま市南区別所5-1-11
TEL/FAX:  048-866-9466
Eメール:  otonano-gakkou@cure.ocn.ne.jp

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