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掲載日:2013年5月12日

お題

性格を変えて人生を変える
IT技術者から人生を愉しむお笑い芸人へ

加藤 一夫さん
開催日 : 2013年2月16日
会 場 : 生活クラブ本部談話室
話し手 : 加藤 一夫さん
(お笑い芸人:サンタルチア加藤)

・・・そこにいきなり出てきまして、私、芸能の勉強をしまして(A4用紙に印刷された体育館で漫談をしている様子の写真を示し)これをご覧になって下さい、まず観客をつかまないとダメなんです。私はこういう所でやったりしてますが、これは体育館です。型どおりのパフォーマンスもいいですが、少人数だったらざっくばらんな突っ込んだパフォーマンスも良いかなと。表面をなでるだけでなくて。

今月でセブンティーセブン、ありふれた人生は送っていません。

今日は女性も女性、熟女の部類にはいる方がいらしていますが、私は昭和11年生まれで、今月でセブンティーセブンになるのです。この77年の人生を最初は何もわからなくてずーっとやっておりました。

最近になって、これからもう一回人生をやるのなら完璧な人生を送れるんじゃないか、と思ったりします。つまり女性の方々も経験されていらっしゃるでしょうが、私はいままで数え切れないほど失敗をしてきています。あの時ああすれば良かったと、女性の方であればパートナーはこっちの人の方が良かったとか、それは男の私もそういう気持ちを持っています。だから人生がもういっぺんできれば完璧なものができます。熟女のひとつ下の世代だったら、年上の女性の心理、ダンナさんの心理を知りたいなら、男性の価値観、人生観、歴史観何かを知ったほうが失敗しない人生を送れますよ、明日からそういう人生を送ってもらいたい、と思って今日の話をします。

私は男性で、70代なんですが、ありふれた人生は送っていません。私の人生をお話しますので、ダンナさんや世間の男性と比較されるのもいいでしょう。

声楽の勉強をしました

ベルカント方式

今日は実用的なお話もしようと思って(顔の横顔の図、ノドの構造を示してあるイラストを示して)こういうものも作ってきました。みなさんの中にはカラオケを勉強しているなんて人は少ないと思いますが、私はあるチャンスがありまして声楽の勉強をしました。ベルカントという方式を学びまして、肺に空気を入れて、声帯というのは親指の爪ぐらいの大きさで、真ん中が裂けていて、そこが微妙にくっついたり離れたりしている状態の時に、肺から空気を出すようにして「アー ッ」と声を出すとあごに共鳴して大きな声が出ます。これを上あご共鳴法といいます。私の勝手な命名ですが。そして(頭の上から何かを摘み上げるようなしぐさをして)上の方に持ってくると、有名な「サンタルチア」の 「Venite all'agile barchetta mia Santa Lucia! Santa Lucia!」(歌う) という後半部分になるのです。ここは頭声で歌うんです。

カラオケも努力すれば歌えるようになるんです、と学校の先生は言いますが、やはり60〜70%は才能なんですよ。私のカミさんの例を見ても、ダメなものはダメなんです。

センスを磨けばオシャレは出来る

真珠のネックレス

正直言いましておしゃれもセンスです。友達が私に「そんな野暮ったい格好すんなよ、もうちょっとオシャレしてこいよ」って言いますが、これしかできません。

これは男性に限っているのかもしれませんが、センスを磨けばオシャレは出来るんです。私もそれなりにオシャレはしていまして、(真珠のネックレスを示して)普段はこういうものは下げないですし、シャツをオーダーで作ったりしています。

私はシティーボーイなんです

この年になると自分の長所や短所、限界を知っておりますので、これからもう新しい仕事はできません。先は見えてますので、これからはそれなりに人生を楽しもうと思っています。女性もそうでしょうけれども。

私の生い立ちですが、私はシティーボーイなんです。浅草の近くで生まれました。 六本木とかセレブのセンスはありませんが、シティーボーイであることは確かです。

中2くらいまで荒川区の町屋に住んでました

中2くらいまで荒川区の町屋に住んでました。雑然とした街です。浅草が近かったので映画を見たり、都電で三ノ輪に行ったり、吉原をふらふらしたり、荒川の土手を歩いたり、都会そのものでした。

道路に面して、父親が乾物屋をやっていました。今のおかず屋です。おかずを煮て店に並べていましたが、その後夜逃げをしました。商売に行き詰まったんですね。

当時はたすけあいの精神がすごくて、みんな貧乏だったんですが、いとこがうちの庭に掘立小屋でも建てて住みなよ、と言ってくれました。今は充足してますから、おかずを持っていったりはしませんね。当時は醤油やお味噌の貸し借りとかやりました。特に下町ではよくやってました。

美容師と結婚しました

いとこの家は板橋区、そこに1年住んで、練馬区に家を作って商売を始めました。喫茶店や美容院をやりましたが、私はそのお店の美容師と結婚しました。

結婚は性格が一致するのがいいかどうかということは大きな問題でありますが、カミさんは私と正反対の性格の人で、その方が魅力があったんです。自分にないものを持っているから。けれど、結婚すると全然ダメですね。やはり生育歴というのは大事です。

下町育ちの私は同じような育ちの人と結婚しないと口うるさくてかなわない。私はB型でズボラ、細かいことは気にしない。私は技術屋なので血液型的性格なんか信用しませんが、これは合ってますね。そこでカミさんと、私と私の母親が衝突しまして、私たちが家を出ることになりました。現在は親のお墓がどこにあるかも知りません。

私は死んだら献体しようと思っています。死んでも縁者は一人もいませんから身軽です。みなさんもそういう境遇でしたら献体をしていただきたい。日本は狭いんです。いちいちお墓を作ってスペースを専有するのはやめてもらいたい。

私は唯物論者で魂とかそんなことは全然信用していませんから、死んだらゴミになる、それまでが人生だ、死んでから魂があるとか、お祈りをすると死んだ人が喜ぶとか、私は信じていません。

私の経歴

今日のタイトルは「性格を変えて人生を変える〜IT技術者から人生を愉しむお笑い芸人へ〜」ですが、これを説明しますと、私は学歴は九九(きゅうきゅう)です。最初の九は義務教育、あとの九は、高校が4年、大学が5年行きました。普通は高校3年、大学4年ですね。私が2年多く行ったのは、落第とかではなくてそういう学校に行ったのです。夜学です。9年は昼まで、あとの9年は夜です。それで技術屋になりました。

向学心がそんなにあったわけではありませんが、性格がB型なので、キュアリアスなんですね。何にでも興味を持つ、大学卒業近くになって英語が好きになりました。卒業してメーカーに入りましたが、そこは1年足らずでやめて、国際特許協会に入りました。ここは英語が必須でした。その後独立してこういう会社(ユーモアスピーチクラブ)を作ったんですが、芸人魂だけでやっているので、あまり発展しなくて、そのうちオイルショックとか不景気で会社はやめて、地元に帰り、家庭教師をしたり、コンサルタントをやったりしましたが、時間が余って収入ががたんと減り、かみさんにも大分助けてもらいました。

声楽を勉強して芸能界に入る

「死んでたまるか、このままで」

声楽を勉強して芸能界に入りまして、しばらくしてこういう曲を作りました。「死んでたまるか、このままで」。これは当時、選挙に立候補しても落ちる、大腸がんにはなる、という状態で、このまま死んでたまるか、という思いで作りました。さわりだけ歌います。(歌う) (カセットテープのパッケージの写真を示して)これは浅草の写真屋で撮ったものですが、当時からこういう顔ができたんですね。芸人魂があったんです。23〜4年前です。(歌う)

この歌は七五調の歌詞ですので、幾らでも入れ替えたり、付け足したりできます。この歌のテープを500作りまして、こういうパフォーマンスをするたびにこれを買ってもらい、もうありません。

その後英語と文章が好きなので、(自費出版の本を示して)こういう本を作りました。自由業で芸人活動するのは非常にハッピーだと、そのために埼玉芸能協会というNPOを作りましてやっていました。性格が自由人ですから、充実した人生を送っていましたので、こういうタイトルにしました。趣味を会社にしたら、ということで、好きなもので会社を起こせという本です。私の人生を漫談風に書きました。

私はパニック症候群だった

それから私はパニック症候群だったのです。小学生から高校生までの頃は、家庭ではよくしゃべれますが、外に出ると友達とさえ話せないという状態でした。場面症候群とかいうのだそうです。病名は吃音でした。

だからIT技術者からというより吃音のある者が歌手に、お笑い芸人になったということなんです。

吃音は単に恥ずかしがり屋ではないんです。恥ずかしがり屋は周りから「ほらなんか喋れよ」と言われると、「こんにちは」くらい言えますが、吃音は全然ダメです。パニックになってしまうんです。私はそれで技術屋になったんです。人としゃべる必要はなく、ただ図面を書いていればいいんだから、と思ったんですがそういうわけにも行きません。電話恐怖症だったんですが、電話もしなければならない、独立すれば営業力も必要だ、人との折衝、交流は避けられない、大学卒業後サラリーマン勉強会というところがあって、話し方同好会とか、話し方教室とかに通ったりして勉強しました。

普通吃音の人は、全然喋れない。3軒隣のオヤジもそうで、私が引っ越して40年、最初目があったとき「こんにちは」と言いましたが、相手は目を伏せてしまいました。よく聞いてみたら、若い頃はすごい照れ屋で人前で喋れなかった、私もそうだったけれど直しました。けどそのオヤジは直せなかった。私は50人でも100人でも人前でパフォーマンスができるようになりました。

「せめてあしふく」が話し方の原則

話し方研究会では強制的に場数を踏ませます。踏めば顔が鉄面皮になればしゃべれるようになる、と信念を持って通いました。話し方って言っても、ただ立ってるだけでなく、「せめてあしふく」が原則だと先生は言います。

これが原則。

ユーモアスピーチクラブをたちあげ

研究会にいた仲間3人と相談しました。当時は本郷の湯島会館でやっていた話し方研究会を御ん出て、池袋の区民センターにユーモアスピーチクラブを作りました。

私が代表だったので、研究会の人たちにも宣伝して、最初は30人くらい、私も講義をしました。

講義といっても型破り、どういう形でもいいから楽しませればいいんだよ、という話をして、それを3年くらいやったんですが、来る方は面白い話をする勉強に来ましたと言いますが、面白い話をするのはむつかしい、女性の場合は馬鹿になれない、格好をつける人が多いですから。

芸能活動の始まり

だんだんメンバーが減ってまいりましたので、私は人前で何回もしゃべるということならもう芸能人になったほうがいいのではないかということで、芸能活動が始まりました。NPOも作って、歌も上手になって、高齢者の施設、会社の創立記念日、町内会のイベントなどに出ましてお笑いをしました。カラオケ教室もやっております。肩書きは声楽家、演歌歌手、漫画家など。

この年になると自分の長所、短所、限界を知っておりますので、これからもう新しい仕事はできませんし、先が見えてますのでそれなりに人生を楽しもうと思っています (この後パフォーマンスによるお笑いの体験タイム)

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